inspiration/delusion of SWAN LAKE
「inspiration/delusion of SWAN LAKE」
作:大植真太郎・児玉北斗
出演:児玉北斗
プロダクション:C/Ompany
日時:2017年7月23日(日)15:30 + 19:30開演 (上演時間約60分)
場所:d-倉庫
チケット:前売2500円
Video:Hokuto Kodama
Photo by: matron
この作品、「あり」か「なし」かで言えば確実に「ない」。それはパッケージはあるのに中身のない商品の様なものである でも、「ない」が故に「ある」って事もあっていいと思う。というか、いっその事「ない」商品を作ればいいのでは?巷にあふれる某白鳥の湖と一線を画したはいいものの、それを「白鳥の湖」と呼んで誰に分かってもらおうというのだ。途方に暮れつつ我々が辿り着いたその先には...と、ここまで書いた所で、あなたは我々が「ない」作品を提示しようとしている事を知る。つまり、そういう作品が「ある」という事を。
妄想と疑問で充満した空間、おのれの思考と行為のスキマに「ゼロ」の存在を探す。哲学、禅問答、いや言葉そのものにしばられて動けないまま、そこにダンスは見つかるのか?
「この作品は何もなかった」なんて言わず、「ない」を見つめる二人にお付き合い願いたい。あなたに時間の「ある」限り!
〜創作の経緯〜
2008年、大植作品『=equal』に児玉北斗がひょっこり現れて対面。児玉北斗、名前のイメージと異なり飄々。2011年、大植作品『ついそこまで』の途中経過発表を児玉が観にきて再会。2012年、児玉が「ヨーテボリオペラダンスカンパニー」より「スウェーデン王立バレエ」に移籍、更に住まいが徒歩10分という偶然を得て飲み仲間となる。以後、大植がこと(創作) あるごとに児玉は相談役を買ってでる。2015年『点とドットの主義主張』は、共に創作し寝起きし京都芸術センターにて発表。 2016年に児玉はバレエ団を休団し大学院へ。大植は相変わらずあっちこっちで仕事するも、ストックホルムではニートな日々。そんな二人の関係性の全てが作品の糧となり、妄想満載な「白鳥の湖」を生むはず…
公演パンフレットより (PDFダウンロード{633kb})
このテキストは、アフタートークの代わりとして、鑑賞後に読む事を想定して書いている。でも、書きながら、先に読んでもらっても構わないな・・・とも思っている。
- この作品の創作プロセスを通して、浮かび上がったのは、有限性に関わる問題だった。そこにない(ある)作品の存在を巡って、何かを生み出すよりも、すでにそこにある(ない)ものを浮かび上がらせようとする過程で、ぶち当たるのはやはり思考・言語の限界と身体のマテリアリティ。近寄る事もできない閾をまたごうと足掻くうちに、ダンスと呼べるようなものが浮かび上がってくるのを感じた。現代の規律化された身体が、張り巡らされた意味の網目をかいくぐって新しい空間を拓くことは容易ではない。一見ナンセンスに見える行為から、センスレスな空間を一瞬でも共有できれば、と考えながらの創作だった。
- こういった言語的な空間にダンスを探求する事は、ともすると言語を特権化し、身体を軽視するものと捉えられがちである。そこは二人の間でも慎重に話合ったつもりだが、しかし本作でも度々強調されるように、意図的に言語が「ない」ところには言語が「ある」のだと思う。私の力不足ゆえ、作品に表現しきれないところがあるのかもしれないが、言語とイメージの関係を一旦捉え直した上で、その隙間から逃走線を引こうとする試みである、という意思を、このテキストの限られた空間に、コッソリと置いておきたい。
- 各所に迷惑をかけながらも、この作品は途中の段階でソロ作品になった。二人共が出演者・振付者という立場にいれば、横並びにはなるが互いの主観から抜け出す事は難しい。だが、出演者としての視点と振付者としての視点という二項対立を一旦受容した上で、互いの主観に侵入を許しながらのフラットなコラボレーションは、逆説的に自分の視点が外にもあるかのような感覚を生み出し、作品中のテキストにも関連してプロセスに全く違う面をもたらした。クリエーションの実践の中でそのような経験に行き着いた事は、個人的に興味深い出来事だった。
- 「白鳥の湖」という作品は、その素晴らしい音楽のみならず、白と黒という現代に重くのしかかる二項対立や、そのエディプス・コンプレックス的なストーリー故、様々な読み方が可能であると思う。今回は、レヴィ=ストロースと構造主義のイメージが最初にあったので、かなり外枠からアプローチをする事になったが、もしかしたら、また別の視点から「白鳥の湖」にチャレンジしてもいいかな?なんて思ったり思わなかったり・・・
最後になりましたが、このプロジェクトに誘っていただき、また有意義なプロセスをシェアしてくれた大植氏に、感謝しきりです。
児玉北斗
言葉と身体が生み出す「不ある」。
どれだけ語ろうと語りきれない、だからここに身体(表現)があるんだと、言いたいところだが、何かを伝えるために言葉(これ自体も身体として私は捉える)があるのだから言葉を使う。 では仮に身体で何かを表す(言葉のない世界)ことは一体なんなのだろう? 例えば日常において、言葉が出てこないで、イライラとしたことはないだろうか? そのイライラと言葉で書いたが、それが身体なのだと思う。 また、誰かを好きになった時、言葉にせずとも、身体が少し熱くなる、それもまさしく身体である。 ここで気づく方はいると思うが身体の行為さへ我々は理解という意味では言葉を持って受けていることがわかるであろう。
しかし、そんな御託はダンスが見たい!っていうタイトルなのだから、とひっくり返してもらっても結構。ただ、今ここで起こる事は、ただアリキタリな身体性であり、特別な訓練を持ってでしかできないことではない。なぜなら、そんな静かな身体性が、私の今までの形と対立して生まれているからである。
そんな静かな身体も表現として「あり」だと思う。そんな誠慎ましい身体性にぴたりとくるのが児玉北斗であり、彼と共に作品を「ない」所から作り上げている。談スに通づる対話の中から作品を創るということの他に沢山の本を読み、若干頭でっかちだねぇ、って言われそうな時間を作りつつあるのかもしれないが、そこには”静かな時間”を優しくあなたの目の前に置くことで、時間をかけてあなたと対話したい。あなたの中に起こることが作品であり、目の前で起こることが「凄い・超技巧・見たことない表現・照明が良かった」などという言葉ではない言葉・表現・体現をこの作品でしたいと思っている。
わからないものに遭遇する、それは今の時代にあって一番必要なものであると思う。そこにどれだけゆっくりと時間をかけられるか? 結果、もし理解するという位置に立てなかったとしても、何も無駄にはならない。無駄のない生活、日々、世界、そこには必要なものしかない、しかしそれは不必要な不という存在なしには存在しない。そしてこの作品ができれば、素晴らしい「ある不」であればと願う。
備考:「外から内を見る」
舞台作品においての『アーカイブとは?』という疑問があります。そしてこの作品、「ない」ものをアーカイブするとは?更に困難な問題かもしれません。ただ、単に「映像を残す」という事ではない、と言い切った時に、なにか生まれるものがあるのかもしれない。
大植真太郎
d-倉庫のウェブマガジン、artissueに公演後掲載されたインタビュー(2018年1月)
http://www.d-1986.com/artissue/wc/2018/cslash/index.html
評論家・児玉初穂氏による公演評(ブログ「舞台の謎」より)
http://d.hatena.ne.jp/takuma25/touch/20170802/1501668168
ダンス研究・呉宮百合香氏による公演評(ウェブサイト「artissue」)
http://www.d-1986.com/artissue/webcontents.html#kuremiya
評論家・北里義之氏による公演評(Facebookより)