Trace(s)
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「人間の身体の原子は常に入れ替わり続けていて、約7年で全てが入れ替わると言われています・・・・では、今ここにいる僕は、一体どこから来たのでしょうか?」
レクチャーの様な形式のソロパフォーマンス。とはいえ、この作品は通常のレクチャーパフォーマンスの様に何かを学ぶものではない。在と不在の境界を自由に行き来する「水」という亡霊のような物質。その痕跡をたどり、歴史を縦断しながら、現代の社会が抱えるマクロな問題と身体の根底にあるミクロな空間の関係性を紡いだ。ジャック・デリダやブルーノ・ラトゥールなどの思想家から影響を受けつつ、やみくもに不在の姿を追う先に辿り着いたのは、自身のパーソナルな存在の問いだった・・・
コレオグラフィー:児玉北斗
初演:2017年3月2日 トーキョーワンダーサイト本郷
上演時間:約70~80分
この作品の原型は、修士課程の入試の為に作った20分程の作品 「Tragedy 1769」。かつては世界の原理とされながら今はペットボトルに捉えられて循環を差し押さえられた水と、それを自らの循環に取り込み、代わって君臨する経済のシステム。現代社会を斜め読みするようなドライでシニカルな作品を作る、などと息巻いていたが、今回の構想を練るにあたって、なぜこの作品を作るのか?というところまで立ち戻り、一から考え直した。そして発表にあたり、「Tragedy 1769」というタイトルから、「Trace(s)」というタイトルへと変更した。
(シーンが変わる)
2015年のはじめに、父を亡くした。子供の頃から自分のバレエの「先生」でもあった父を失い、当たり 前に感じていた自分とダンスの関係性も根本から揺らいでいた。予定していたクリエーションも断念し、踊りに疲れていたこともあり、一年近くは悶々と、ダンスではない道に目が移っていたように思う。そんな折に訪れたドイツの美術館で、中国の現代美術家Song Dongの「Waste Not」という作品に偶然出会った。彼の父親が亡くなった事をきっかけに母親が収集し始めた、膨大な量の物たち(ほぼガラクタのような、使用目的を失った物たち)を展示したものだった。その中の大量の空のペットボトルを見たとき、どうしようもない感覚に襲われた。あって当たり前の「モノ」がそこにない。でも形態を変えてこの瞬間、世界の何処か に確かに存在している。そこに存在するペットボトルよりも存在しない水に対して強い「リアリティ」を感じた。振り返れば、それがこの作品の始まりだと思う。根底にあるものは全然ドライでもシニカルでもなかった。暫く創作からは離れていたが、指示によりダンスを創り出すという意識より、既に存在する関係性を読み換え権力をはぐらかす事にコレオグラフィーを見出し、また興味を持てる様になった。
(元のシーンへ戻る)
水を主役として、文化・自然や在・不在を跨いだめくるめく関係性の断片を並列しようと思う。あるモノの裏でないモノ、その裏にあるモノ。それはちょうど表面を辿っていくといつの間にか裏側に辿り着くメビウスの輪の様なトポロジーなのではないだろうか。もしくは、まさにその事において、いつまでも裏側には辿り着けない状態が生まれているのかもしれない。出来事の内に畳み込まれた、過ぎ去ることのない時間。その広大な宇宙に向けて、不在の痕跡を探す手さぐりの旅に出る・・・
発表にあたり、尽力してくださったトーキョーワンダーサイトのスタッフの皆様、創作の意欲を刺激してくれた全ての出会い、紆余曲折を超えてサポートしてくれた家族、師、先輩方、友人たちに心から感謝します。
2017年3月 児玉北斗